孤独とコロナ

一部、報道で『路上での飲み会』とか、酔いつぶれて路上で寝ている人の映像が流れていた。不思議な感じがする。そこまでして飲みたいのかな?という気分にしかならない。

じつは週末、食事に呼ばれたのだが、私は正直なところ楽しまなかった。『魚づくし』に『鶏肉』で米はなく、ひたすらに向こうの方は飲んでいた。最後は塩味の強い和風ラーメンのごときもの。まったく身体に悪いもののコースという感じ。

私が決して食べないたぐいの食事なので、これはもてなしになっていない。しかし、それを言うと角が立つので、黙って食べていたが、案の定、尿酸値が上がった気配があった。もう、不愉快極まりないのだが、むこうはご機嫌で飲んでいたので気が付くはずもない。

私はかつては、毎日1パイントのビールと、ウィスキーを飲んでいたわけだが、別になくても平気。中東にいたときは毎日全く飲まず、半年でも1年でも平気。帰国前日、仲間のエンジニアは羽目を外してずいぶん飲んでいたが、私はほとんど飲まず。『飲まないんですか?』と言われたが、『私はバドワイザーは嫌いだし、ジョニーウォーカーのウィスキーも好きではない。』と答え、手を付けず。

私はそのまま日本とは反対方向の英国へ戻り、ロンドンへ着くと、コヴェント・ガーデンのマリンズへ葉巻を買いに行き、カゥンターの上の、ブラスで出来た火を噴く道化師のしかけで、葉巻に火を点け、一段落。袋にパイプ用のクラスティング・ケーキと葉巻を入れてもらい、胸ポケットに葉巻を3本差して、ストランドへ一杯飲みに行く。そんなことをやっていた。

私は海外で、どうしても日本食がないといられないと感じたことがありません。こういうのは、すべて『心理的依存』だと思う。こどものころからあれほど好きだったかつ丼を食べずに、もう5年。いつでも街へ出ればあるわけですが、タバコ同様、自分のためにならないとおもったらやめる。

ブログを継続的に読んでおられる方はご存じと思いますが、私は『バイデンのようなどうしようもない人間が大統領になったら、煙草を再開する』と言っていたが、いまだに吸っていません。

酒も煙草も、だらしなく欲望のままにのむのは嫌いだ。

知っている人で、自分の親が作ってくれた利権で、一切働かず、家でブラブラしている人がいた。けっこうな金持ちで、家では絶え間なくキャラバッシュのパイプで、ラタキアのブレンドを吸っていた。もう、そのキャラバッシュのパイプが、見るも無残にヤニでドロドロになっていた。あるとき、『Mさん。そんなヤニまみれのパイプじゃ、味がわからないでしょう?』と訊いた。『いや、そんなことはありません。最高です』との答え。

ほどなくして、その方は脳梗塞をやり、しばらくして亡くなりました。あのドロドロのパイプの味は、人生の時間と取り換えるほど意味があったのかな?と思った。

これは酒でも同じことが言える。そういう喫煙欲、飲酒欲、美味・珍味欲にどっぷり浸っている人をみると不思議な感じがする。

むかし、あるハープシコードの演奏者に付き添ったことがありましたが、『食べ過ぎると指の動きが、力が余って悪くなる』と昼食はケーゼ・ブローテ(チーズトースト)だけだった。友人のバレエのダンサーやファッションモデルなどでも、たいへんな節制をしている。

電話をしてみると、そうした人たちは、このコロナの規制の中でも、今まで通りのひとがほとんど。芸術家や職人は、一人で孤独に仕事をしてこそ、『発表して人が喝采する物が作れる』。社交的に生きていたら、物を結晶させることはできない。これはすべての『わざもの』に言えることだ。

電車に乗っていてわかったことは、たぶん、スマホの普及で、現代の人は、ますます自分一人でいることに耐えられなくなっているのではないか?と思える。

自分はその意味、『携帯電話もない中で、待ち合わせをしていた』世代なので、いまだに、ずいぶん違う世界に生きているのだな、と思う。

プロフィール

roughton

自然と調和して、自転車の上のEthicalな生活をして、健康長寿。

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